7 わしは草もみじが好きでのう

まだこの世に誕生していない、私の初孫の桃太郎よ。
女の子であるかも知れない君を『桃太郎』と呼ぶ非常識は許して欲しい。
『桃太郎』は日本一の名前なのだからね。
『桃太郎』という、一人称に語りかける時、私は正直になれる気がする。
世界の誰もが、私を理解してくれなくても、桃太郎だけには正直になれる気がする。

このように、「桃太郎、桃太郎」と唱えて、このページの世界に入っていく。

里の母は、というより、桃太郎の祖々母は七十五歳で今も元気である。
庭仕事が趣味で、特にカサブランカを育てることに、情熱をもやしている。

「草はなるべく早く抜くこと。種がこぼれてから抜くのでは、来年の仕事を増やすだけ」
と、母は母の母に言われたと、子供の時から、何十回も、いえ何百回かもしれないほど、
聞かされ続けてきた。
『悪の芽は小さい時に摘み取れ』と普通にいう。服のほころびでも、小さいうちに繕うと
楽にできるし、放っておくと取返しがつかなくなる。
もっともなことなので、そのまま信じていた。

ところが世の中には「草は抜いてはいけない」という家もあったのです。
私は、その「草は抜いてはいけない」家に嫁いで来てしまったのです。

舅は、京都美術学校卒業の日本画をたしなむ人でした。
たしなむと、控えめな言い方をしたのは、画家で生計をたてたことがないからです。
舅は真から優しい人で、桃太郎の父が小学校一年の夏休みに天国にいきました。
九十一歳でした。
高齢で得た内孫をそれはそれは、宝物のように愛しました。
力を振り絞って、孫の肖像画を描きました。
肖像画の主は、桃太郎、君の父です。
舅にとって、君の父は『希望』そのものだったのですね。
私が桃太郎に呼びかけると同じ気持ちで、舅は君の父の肖像画を描いたのです。

「草は抜いてはいけません。秋に虫の声が聞けなくなります」
「庭に咲いた花は切ってはいけません。切り花が欲しければ、花屋で買いなさい」
「落葉は掃いてはいけません。そのままにしておきなさい」

人工より自然を上等とした舅の感性は、画家の目でもあったのでしょう。
『わしは草もみじが好きでのう』 私の頭脳をぶちわるほどの意識改革の言葉でした。
草がもみじする、わかりやすく言うと、種を落とした草が枯れている状態のこと。
野原ならともかく、庭の雑草が打ち捨てられたままで、枯れている情景は、私の母や祖母
の目には『恥じ』そのものに映ることでしょう。
手入れをしないで、打ち捨てられた庭は庭とは言えないとまで、思うかもしれない。

『郷に入れば郷に従え』のたとえのごとく、私は舅の存命中は庭の雑草を無視した。
本当は馴れない家事に続く出産育児で雑草どころではなかったのですが。


                             1999・10・1記

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