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第一次世界大戦が戦われていた頃に、小学校3年の学歴しかない父が、そのころでて
きたテクノロジーの大発展に眼をつけた − レーヨンの発明である。 その時、父
は資金を有効に使って、レーヨンの編み物(ニット)製作所を入手した。 その工場
は私が少年になった頃もまだ製作していた。 父は週末に私を連れていってくれた
が、その大きな部屋の光景に息を呑んだものである。 直径2.5フィート(62セン
チ)の円筒形の機械が床にならび、天井には起動軸やベルト車が設置してあって、そ
こからレーヨン糸が下がってきてそれぞれの機械につながっており、そして女性下着
に使用する長い筒状のレーヨンニットを編むのである。
その頃には、ブルックリン郊外の裕福な地域に我が家があった。 うちには荷車とそ
れを引くポニー(子馬)があった。、父は自動車フアンになって大型車をあれこれ集
めたものである。 それらの大型デザインは姿を消した。 感謝祭やユダヤ教の祭日
や日曜日にはうちでおおきな食事をした(子供が7人、その友達、それに親戚が加わ
るのだから、想像してみてください)。 感謝祭にはたまに父にくっついて30ポンド
(13.5キロ)もある七面鳥を買いにいったことがあります。 生きた七面鳥をその場
で、ユダヤ教の習慣に従ってトサツし、羽をむしって家にもってかえり、日中かけて
丸焼きにする。
ユダヤ人家庭は一般的にそうですが、特に貧しくて、あるいは差別のために教育を受
けられなかった人達はそうですが、うちの家族は教育にとても熱心である。 子供た
ちに勉学の意思があれば、どんなことがあってもできるだけの教育を受けるように補
助したものです(ただし男子にかぎる)。
(続く)
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