2007.05.27 父の物語(3)


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19世紀末のニューヨークにはヨーロッパ各地からやってきたユダヤ人移民が広い地域
に住んでいて、自分たちが新大陸でみつけた知識を新来者とわかちあおうことに喜び
を感じていた。 ある家族が父をひきとり、仕事も見つけてくれた。

さて次の問題は、ハンガリーに残してきた若い家族にいかにして仕送りができりかと
いうことである。 父は様々な方法で安給料を引き伸ばした。 まず、仕事場まで歩
いて5セントの地下鉄代をうかした。 そしてその5セントで昼にランチ付きのビー
ルを買った(ランチは無料)。 持って生まれた能力と重労働もいとわない態度で、
父は間違いなく一歩一歩上昇していき、数年後には母と長兄のネーサン、長姉の
アウグスタを呼び寄せるための金ができた。

父母はその後さらに7人の子供をもった(そのうち2人は早死)。私は生き残ったう
ちで一番年下である。 生活は苦しかったが、惨めではなかった。 私が生まれたこ
ろには楽になり、そろそろ豊かになりつつあった。 そこで私は幸運の印だといわれ
たものである。

私は1918年に生まれた。 第一次世界大戦が終わり、インフルエンザがまんえん
した年である。 父はブランデイは万病に効く薬と信じていたが、うまれたばかりの
赤ん坊に飲ませるわけにはいかないと気づいた。 そこでそれに次ぐ療法を採用した
 − 樽にブランデイを満たし、それで私の身体を洗ったのである。 それが効いた
に違いない。 89年たった現在も私はぴんぴんしている。

(続く)

 

 

 ちる平
 「 前列右の少年が著者です。
  この頃からもう科学者の雰囲気
  がただよっている」


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