2007.05.25 父の物語。バンラルフクーバー述

父は1880年代にトランシルバニア(訳者注:ドラキュラで有名)で生まれました。
その頃はオーストリア―ハンガリ帝国の一部にあたり、父はルーマニアとハンガリーの
間を行ったり来たりしました。 彼が10歳のときに父親が亡くなり、彼は家業である
雇い馬車営業をひきついで、それが学校教育の最後となりました。

14歳の頃、父は皮なめし職人の住み込み弟子になりました。 勤務時間は長く、食
べ物は少なかったが、毎週金曜日のサバス(訳者注:ユダヤ人の慣習である金曜の夕
食)にでる鶏肉、魚、ジャガイモとデザートからなる夕食がせめてもの救いだった。
ところが父は一番の下っ端なので、席はテーブルの末席、ご馳走を盛り付けた大皿
が彼の席にとどくころには大家族が食べたあとで、残りものしかなかった。

父が面白い話を教えてくれた。 ユダヤ人の習慣で金曜日の夜は、通りに出ていって、
見知らぬ他人を夕食に招待するのである。 ある時、この招待された赤の他人で
ある客は明らかにとても空腹らしく、上座にすわってご馳走をがつがつ、全部たいら
げてしまいそうな様子だ。 一家の主である皮なめし職人はそれはたまらないと、客
に質問して食べることから注意をそらさせることにした。

「所帯をもっているかね?」 (ところが、この客は一歩上手であった。 その次
にくる質問まで察して、さき回りして答えた。)「子供も二人いるよ。」

*ちる平の註。
      おそらく、結婚のいきさつ、住まい、家族と延々と話をさせようとしたが
      客は簡単に最後の子供の人数へ一足飛びに飛んだ。

ともかくも父は皮なめし職人の免状をもらい、とても若いうちに母と結婚した。 母
は豊かな家庭の出で、家族は貧しい父のことが気に入らなかった。(この不認可は後
年逆転することになった。 というのも、ヒットラーのナチスがはびこった時に、ア
メリカに在住していた父は母の親戚の出国を手助けしたり、また財産を安全な場所に
確保してあげたからである。)

まもなく男の子と女の子が生まれ、父は製皮工場を格安の値段で買った。 ところが
格安値段の理由がすぐ明らかになった。 そこの水が製皮過程に不適で、製皮工場は
破産した。

   *ちる平
      「100年も前のトランシルバニアのはなしですぜ。ドキドキするぜ」

(続く)

 

 


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