
両人とも卓越した自然科学者であったが、フィッツロイとダーウィンの違いはその思考の柔軟性であった。
フィッツロイは熱心なキリスト教信者であり、創造論の支持者であった。
そこでダーウィンが発表した資料がその創造論に波紋をおよばすことに我慢がならなかった。
神こそ全ての創造主であるはずだと固執した。 あの頃の英国社会では教会が大きな影響をもっていた。
ダーウィンは最初医学校に入学したが、肌にあわず一年早々で退学、それからは父親にすすめられたこともあって、
のんびり牧師になるつもりでいたのだ。
週末には教会で説教して、暇な時間は好きな標本収集に専念できるとおもっていた。
ところが、裕福な従妹と結婚したために、生活のために働く必要はなくなり、好きな標本採集に専念することができた。
標本を集めて分類分析すればするほど、生物の生態は環境条件に影響されるということがわかってきた。
神の創造主としての存在がだんだん小さくなっていく。
熱心な信者ではなかったが、一時は聖職をこころざした人間として、彼は内心おだやかではなかった。
だから、彼は“進化論”などという大げさな仮定や理論は長いこと口にしなかった。
“自然の選択”について個人的なメモを書き始めてからそれを発表するまでに20年近くの月日がたつことになる。
そして彼の名前は誰にでも知られるようになった。
一方、フィッツロイはその後、国会議員となるがどうもぱっとしない。
後は新植民地ニュージーランドの司令官として赴任するが、英国移民と原住民(マオリ族)の紛争を解決するときには
原住民に同情的だったので、英国移民の人気がえられず、英国に呼び戻される結果になった。
彼がその技量を発揮したのは天気予報についてである。
彼は航海経験から低気圧が悪天候をもたらすことに気づいていた。
そこで商船組織が気象学部を設立したときにその初部長となり、新聞の天気予報欄を担当するにいたった。
ところが、100パーセント正確な天気予報は不可能であるから、彼の名声も時がたつにつれて下がっていった。
彼の健康は衰えていった。 身体と同様、心の健康も衰えていった。
60歳のとき、当時人気の高い進化論が論議された自然科学者会合に出席したあと、彼は自らの命を絶った。
母方の叔父も自殺しているので、その血筋をうけついだものと思われる。 (終了)
(2010.04.25 掲載)
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<編集後記>
またたび企画としては、
ホームズ先生による、8編からなる
『進化論の船長について』のご執筆には感謝あるのみです。
御親友のワトソン先生のスランプ状態を埋めるためのご尽力には、
ご両人の親交の深さが察っせられて感慨を深く致します。
内輪のこぼれ話としましては、新人編集者の慎太郎が
若さゆえの無知からくる無礼な通信応答をホームズ先生に
したことを陳謝するものです。
尚、カット挿絵は慎太郎がどこからか入手したものです。
休養中のワトソン先生の特別原稿を無数のファンレターのなかで
見落とさなかった功績で(174後付)、
今後の読者投稿の掲載は
慎太郎に一任しました。
4月6日から25日までに8話の寄稿をホームズ先生から
頂戴できた光栄を噛みしめています。
ニャロメ編集長(4/25)
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