
スキャンダルを避けるためにフィッツロイはまさに彼独自の解決法をおもいついた。
問題が表面化するまえに、この原始人たちをかれらの故郷にもどしてやることに決めた。
とはいうものの、これは至難の技である。
21世紀のように片道切符をもたせて飛行機に乗せてやるというわけにはいかない。
彼は自分で責任をもって返還することにしたのだ。
それを可能にするために、彼は英国海軍に第二回目の測量航海すること提案したのである。
前回の測量は備品不足のために完璧とはいえない、さらに今回は南アメリカ南端のみならず、
その後は世界一周のルートで帰国するプランはどうかと。
英国海軍はシブシブながらも許可をおろしてそれなりの予算に同意した。
そして航海に適当な船をさがしたところ、ビーグル号がまた候補にあがった。
フィッツロイは予算が足りないところは自腹をきって船の改良に専念したという。
そこで、翌年1831年にビーグル号は出発準備が整った。
この新しい航海は5年はかかるだろうことをフィッツロイは知っていた。
その航海の孤独と退屈をしのぐために、彼は育ちの良い自然科学者をコンパニオンとして乗船
させることを思いついたのだ。
そこで知り合いの大学教授につてをたのんだら、3人ほど紹介されたが、最初の2人は(あまり
にも膨大な航海なので)辞退したが、3人目のダーウィンが申し出を受け入れた。
彼は独身だったし、世界中を回って標本を集められると胸をはずませたという。
2回ほど二人で食事して科学についての話しが弾んだので、これならよかろうと、二人は同意した。
そしてその年の12月末日にビーグル号はパタゴニアにむけて再び帆をあげたのである。
これが、ビーグル号とダーウィンの出会いである。
つまり"進化論”が生まれた舞台は、フィッツロイが4人の未開人を英国に連れかえって、その試みが
失敗したことに由来したといえる。
(続く)
(2010.04.23掲載)
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