165 ワトソンの東京暮色(先が思いやられる)

 
         

ホームズ殿

親の任務から解放された老いさらばえたカラスは自分のわずかばかりの餌を捜して残り少ない生命
をつなぐ。立派に飛び立った子供達との愛に満ちた時間を追憶して涙する。哀しいなあ。
這えば立て、立てば歩めの親心と古人はうまいことを言ったもんだ。
子供の方からは、 親孝行したいときには親はなし墓に布団は着せられぬ、うまいねえ。

冒頭に述べたカラスは、実のところは老いたれば死ぬばかりである。
子供のことなど忘れてしまっておる。あっさり一巻の終わりで人間のように介護など必要としない。
僕の母親は若死にだったが親父の方は九十一才まで生きた。親父は最後まで頭ははっきりしていた。
最後も、寝たきりになって家族を困らせるようなことはなかった。
ぼくは親父とはこころを割って話をしたことは一度もなかったような気がする。
再婚した親父には一枚の壁を作って対していたようだ。
いちばん聞きたい母親のことは一度も聞けなかった。
だから母親という存在は僕には慕わしい夢のような存在なのだ。
現在母親が生きている人間はそれだけで夢のように幸福であると僕は思う。
この年になっても、 すべてに代えても母親に会いたいと心から願う。
僕に言わせればマザコンとかヘソの緒が切れていないとか云々は馬鹿者のたわごとである。
彼等は母親のない人間の、浮き草のような頼りなさが分らないのである。
数十年も前に母原病という言葉が流行った。当時から僕は、母原病という言葉には係わらなかった。
病気は細菌なりビールスがおこすもので、母親との確執から熱がでる咳がでるとか、馬鹿言うな。
こじつけのコンコンチキに僕は耳を貸さない。

こんな情味に欠ける、味も素っ気も無い男のワトソンを相手に彼女は話し始めたのだ。
家庭内のややっこしい込み入った心理葛藤劇を僕が裁けるはずもなかろうに。
しかし、彼女の口から出る一言一言が異文化のバロック音楽のようで こころが弾むのだ。
先が思いやられるだろう?


        ワトソン          

                            (2010.02.08)


    


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