150 ワトソンの住んだ家々(奉仕の精神)


ホームズ殿


『ワトソンの住んだ家々』という題で回を重ねて来たが、いささか題からそれた感が
ある。そもそも、ホームズが僕のために『古き友を尋ねて』の記事を送ってくれたこ
とが、このテーマを書くきっかけであった。
ホームズのおかげで、ぼくは自分を振り返って観ることができた、というより今、振
り返っている過程である。
ところで、今回はテーマの住まいからは外れたことを思いつくまま述べたい。
独り言だと思って読み流してくれたまえ。

瀬戸内海に浮かぶ長島ライ療養所には、奉仕の精神という高邁な精神で飛び込んだか
に見えるが、真の真はドクターとして生きるあてがなかったからであった。
まったく新しい環境に飛び込んで若者としての興奮がおさまったころ、あたりが見え
てきた。
何の咎もないのに不治の病とされていたライ病を患い、家族からも離れざるを得ない
気の毒な患者さんたちであるが、彼等はいじけた人もそうでない人もいたが、それぞ
れに普通の人間であった。
給食の魚の切身の大きさにも苦情を言って来る、只の人間であった。
世話をする職員に細々としたことを要求するし、それから堂々と文句も言う。
ぼくの中の何かが揺れて来た。
療養所にはボランテアの慰問客がゾロゾロと毎日のように来る。
職員も患者さんも、団体慰問団の相手をして、おもしろくもない素人芸をみてやった
り、毎度感謝の辞をのべなくてはいけない。
慰問団は一年に一度の行事かもしれないが、受け入れる側は毎日なのだ。
気の毒にとおもっての慰問は純粋な美しいものであることを否定しているわけではな
いが、ぼくの中の何かが軋みだしてきた。

結局は薄給で扶養家族を大勢抱えてはくらしてゆけないということが一番の理由では
あったが、ぼくが医者としても人間としてもナマクラであるということを自覚したの
だ。奉仕の精神などとホザク前に勉強をしなくてはダメなのだ。
家族を小分けにして、親戚にそれぞれ託して、ぼくは中村先生の弘前大学第二生理学
教室開設にあたり先生に呼ばれて馳せ参じたのであった。

ワトソン

 

 

 

 

 

 


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