ホームズ殿
不起訴処分になったとはいえ『100万ドル事件』として地元の新聞に載ったのだ。
岡山に戻ったら、驚いたことに療養所のみんなが暖かく迎えてくれた。
それまでのギクシャクした空気は嘘のようにみんなが両手を広げて迎えてくれた。
ぼくはその時に悟ったね『失敗というのは悪いことばかりではない』ということを。
素性の知れぬよそ者は、拘置所がえりで俄然、人気者に変じたというわけだ。
それから、官舎のぼくの部屋は一日中珈琲が香る独身者のたまり場になった。
広島での繁華街の喧噪は嘘のようであった。夜には瀬戸内のおだやかなせせらぎ、
行き交うポンポン蒸気船。
職員旅行、ピクニック、クリスマスには子供達にお芝居をしてみせたり、ぼくは若者
らしく活躍した。
愉快な若きドクター生活は親父が子供達を連れて転がり込んで来て、終止符を打た
ねばならぬ羽目に落ち入った。
薄給生活はただちに緊迫してきた。生活が立ち行かないのである。
更に、ここでの生活は医者としての経歴には入らないということを知るに至った。
このタイミングで幾多の経緯を経たのちに恩師の中村勉先生からのお声掛かりを頂い
たというわけだ。
岡山長島療養所で知り合った連中とはそれから、今日に至る迄ずうと付き合っている。
みな退職して悠々自適のくらしをしてはいるが、近年「ライ病患者さん方が隔離されて人権蹂躙されたと訴訟を
おこしている」と暗い顏で語ってくれた。
「我々職員は一生懸命に働いたし、彼等は隔離されたことを訴えているが、あの時代では家族とはくらせなかった。
国に引き受けてもらったというのが実情だったのに」と患者さん達の世話をする仕事に従事した彼等は哀しい。
短い期間とはいえ、仕事を共にしたぼくは同情を禁じ得ない。
経済的事情で早々に引き揚げたぼくとしては、職員である食堂関係の若者達のために『こんにゃく大量切断器』を
発明したことのほうがこころに残る。すみません。
ワトソン
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