ホームズ殿
全滅したと予想していた親父たち全員は、ぼくの養子先の島根に疎開していた。
思いもかけなく親父の家族達を扶養する立場になったが、家族とくらすことで
ぼくは有頂天になった。
島根の田舎にいてはラチがあかないと思ったぼく達は、広島に出て再起を計った。
親父に店を持たせたり、ぼくもヤクザまがいの連中の口車に乗って起業家を気取
ったりで、今にしては冷や汗もので恥ずかしいかぎりである。
商売のイロハも知らぬのに、広島市内の歓楽街にパチンコ店を出すという暴挙にでた
のは、やっぱり若さだねえ。
ぼくの金を当て込んで商売をしようとする連中がウヨウヨしていた。
ぼくは、自分の投資した数件の喫茶店を朝からまわって若き実業家気分に浸っていたの
だから、、、、。
数年で養子先の財産はきれいに無くして、さっぱりした。
と思ったとたんに、今度は借金地獄に落ち込んでいた。
この間、親父は何も言わずに傍観していた。
幼いときに養子に出した息子には口出しできなかった親父の心中というものはまるで分
っていなかった。
被爆さえしなければ、薬と化粧品の店で『旦那さん』で呑気にくらしていた親父も気の
毒であった。
結局、親父夫婦と兄弟姉妹の総計7名がぼくの肩にかかってきたというわけだ。
親父の口癖は「子供は多ければ多いほど良い」だったが、まさか敗戦であんな目に会う
とは。
養家先の財産を湯水のごとくに使い果たしてしまって、はじめて、自分という者を考え
てみた。
医者として生きるしか道はないことを悟った。
ぼくのとった行動は驚くべきことであった。
瀬戸内海に浮かぶライ病患者を隔離する長島療養所に医者として飛び込んだのである。
中村教室に馳せ参じるより以前のできごとである。
ワトソン
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