146 ワトソンの住んだ家々(台湾を引き揚げる)





ホームズ殿

前回で述べた、「中村教室開設時に馳せ参じた」と言えば恰好がいいが、実のところ
はそれ迄には紆余曲折があった。

戦時下での台湾の陸軍病院は、ほぼ9割がた地下に医療施設を隠し掘っていた。
防空壕を掘り進めるためのハッパの音が地響きと共に常に聞こえる状況だった。
看護婦をはべらせる体にして威張っていた鬼軍曹も、ハッパと爆撃を聞き違えて
防空壕に逃げ込むタイミングを間違って傷を負い、それ以来はドンという音で
ましぐらに防空壕に駈け込むので笑い者になった。
ある種の人間は本当に痛い目にあわないと恐怖というものも理解できないのだ。
それに、空威張りはするものではないねえ。

ぼくは台湾を引き揚げる時には軍人家族200人余りの人数を引き連れて帰国の任に
当たった。引き揚げ船はリバティという貨物船であった。
荷運びから人数確保、生命保護まで諸事万般、弱冠24歳の敗戦ながら若き軍医とし
て奮闘した 。
リバティは和歌山県田辺港には受け入れられず、広島県宇品港でようやっく下船を
許可されて重い責務を果たすことができた。広島に上陸できたのは幸運だった。
昭和21年3月であった。

広島が被爆したという情報は台湾で、親しいジャーナリストから流れ聞いていたので
親父達は全滅だろうと覚悟をしていた。
高性能爆弾というのは原子爆弾だろうと思った。
まっこと、広島の街は跡形も無く視界の先には山の姿がそのまま見えた。

ワトソン

 

 

 

 

 


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