ホームズ殿
何故か基礎医学の生理学の中村勉教授の電気生理実験だけは面白く得意だった。
学生の身分でありながら、中村教室員として実験をさせてもらっていた。
と、前に書いたがこのことが後のぼくの人生を決めたのである。
終戦後、中村先生は御家族を連れて台湾を引き揚げられた時に、それ迄の
ぼくの実験データーを持ち帰ってくださったのだ。
先生は北海道大学医学部の卒業であったが、故郷津軽の弘前大学が第二生理学教室
開設にあたって、先生が招聘された。
この時にぼくは先生に呼ばれて馳せ参じたというわけである。
台北医学生時の実験データーをもとに、更に実験を重ねて博士論文まで漕ぎつけた
のである。
弘前という未知なる土地でまがりなりにも医者として生きてこられたのは一重に恩師、
中村勉先生のお陰である。
敗戦後の台湾引き上げ時、持ち物規制の厳戒体制のもと先生の持ち物の中にぼくの実
験データーが入っていたということを後年思い起こせば、中村先生こそぼくの三番目
の父であると実感したものであった。
先生の追憶は尽きないが、医学書における造詣の深さは恐ろしい迄で、「何々はどの
書籍のどのあたりに記述がある」と、我々学生をして舌を巻かせしめたものであった。
ちなみに先生は当大学の図書館の館長でもあられた。
「本というものは一行でも役にたつ箇所があればそれで良い」ともおっしゃった。
今だに、何気ない日常生活の中で、中村先生の言葉を実行していることがあって驚く
ことがある。
それは、機械器具を分解して組み立てる時のことで、数本のビスをそれぞれの元の位
置に戻すということをされていた。
先生の謹厳実直な御気性がそのような行為をするのだと軽く思っていたが、そうでは
ないのである。
たとえビスごとき没個性のように見えるものでも、長い時間を経過することで、その
穴に似合ったビスとしての個性を勝ち取っているということである。
愚鈍とも見えかねない、実直にしてきめ細かい科学者としての先生のたたずまいが想
いだされる。
津軽訛りの先生の慈愛の数々が懐かしい。
ワトソン
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