144 ワトソンの住んだ家々(台湾台北の続々の続々)





ホームズ殿


台湾時代の追憶に恩師のことを追加する。
少年のころより電車が好きで、『子供の科学』を愛読していたぼくは希望であった
工学の道を断念して医学の勉強をしていたわけであったが、熱心にはなれなかった。
浮かれて遊んでいたというのが実体であったが、何故か基礎医学の生理学の中村勉
先生の電気生理実験だけは面白く得意だった。
学生の身分でありながら、中村教室員として実験をさせてもらっていた。

ぼくの主任教授となった中村勉先生は、苦手な軍事教練をすっぽらかして下宿の床で
寝て居るぼくを何度もアパートまで起こしに来ては教練の授業に連れ出してくれた。
配属将校の鬼少佐に睨まれたら即退学であったから。
それに、出席日数が足りなくては卒業もできないのだ。

ぼくは軍事教練というようなものは苦手で大嫌いだったのだ。
この苦手な軍事教練をどのような手を使って逃れたかを述べよう。
ぼくは『ぼーやを守る会』の組織ファンを擁していた。
アパートの階下のレストランも食堂も喫茶も、さらにはアパート住人の酒場の女給さん
まで、軟弱なぼくの味方だった。

配属の鬼将校の下に、少尉か中尉くらいの教官がいた。
教官はぼくに多大な好意をもってくれ、指揮班の班長という役目を与えてくれた。
ぼくが名刺(学生なのに名刺を持っていた)に「この方を宜しく」と書いたのを持たせた
だけで、名刺持参の人は『ぼーやを守る会』のどこでも歓待を受けられたのだ。
腕立て伏せも、ほふく前進も、槍を持って我武者らに突く運動も大嫌いなぼくは、指揮班
として 自転車に乗って通達をする伝達係を『名刺効果』で勝ち取った。
暖かい珈琲を詰めたポットを肩に斜めがけにしたぼくは、自転車で「東に攻撃目標!」とか
「演習終了!」とか叫んで走っていた。
とたんに軍事教練は楽しいものになった。

次回はこころを込めて中村先生のことを書くことにする。


ワトソン


 

 


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