ホームズ殿
なんと驚くことなかれ!
ぼくが大学時代を過ごしたアパートは取り壊しもされずに残っていた。
もっとも、アパートという機能は果たしてはいなかった。
建物として、残っていた。青春の残骸と対面する想いで言葉を失った。
このアパートで飛行機の模型作りに熱中したっけなあ〜。
出来上がったら、あんまり大きくて部屋から外に持ち出せなかった。
女給さんが大きなスイカを持ってきてくれて、一緒に食べたこともあったっけ。
友だちが友だちを連れてきて、誰が住人か分らぬほど、常に誰かが居た。
台北医学部の教授になっていた奴が新築したばかりの構内を案内してくれた。
彼の後をゾロゾロ付いてまわって、丁寧な説明を受けた。
戦時下、占領された側の国の秀才は教授になり、今だに正しい日本語を話す。
「よく来てくれた。鮭が生まれた所に戻って来てくれたような感動だ、有難う」
という趣旨のスピーチにぼくも感動した。
台湾人の彼等は親日家で、日本での同窓会にも常に誰かが参加していた。
当時としては潤沢な仕送りで台北という土地で過ごしたことは、ぼくの人間形成に
どのような影響をおよぼしたのか、あまり考えたことがなかったが、隠居生活のいま考えて
みると、“極楽トンボ”じみた時の流れと没交渉という生き方を身につけたことかな?
なんて言ったら、昆虫熱中少年の孫から「おじいちゃん、トンボだって、一生懸命生きているんだよ」
と、たしなめられるだろうねえ。
ワトソン
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