ホームズ殿
台北医学部時代はアパート住まいだった。
新起町という娯楽街にある3階建てのアパートで、その3階に居た。
アパートといっても1階にはレストランや食堂、甘味処という今でいう喫茶店などの
店舗が5軒も軒を並べ、まことに
居心地のよいところだった。
一度の引っ越しもしないでそのアパートでずうとくらした。
住人は酒場で働く女性や板前、それからインテリ派では日本から派遣された毎日新聞
の記者やレントゲン技師や、「味の素、台北支店」の支店長らが居た。
支店長には随分と御馳走になったものだ。
ホームズ、君には話したことがあったかと思うが、ぼくには特高がついていたのだよ。
特高というのは日本の旧警察制度下における特別高等警察の略で治安維持法などの
もと警察国家の主体として自由主義、社会主義、共産主義運動を弾圧していた。
当時、台湾は大日本帝国の支配下にあったのだ。
ぼくのようなおとなしい愛国者にどうして特高が付いていたかと言えば、アパートの
ぼくの部屋は友人たちの溜まり場になっていたからだ。
なにせ階下のレストランも喫茶店もぼくのツケなのだから、友人も集まるわな!
小柄なぼくは、レストランからも喫茶店からも酒場づとめの女給さんからも「ボーや!」
と呼ばれていた。
おとなしい性格と養母からのたっぷりの送金をして、ぼくは大人の皆から「ボーや!」
「ボーや!」と呼ばれて可愛がられる若者になっていたというわけだ。
特高から「坊屋とはどんな人物だ」と内偵されていることをレストランのコックから聞か
され、たまげたね。なんと「坊屋」は、特高の引き継ぎ人物になっていた。
島根の田舎出の少年が井の中から飛び出したという実感だった。
半失明状態ながらぼくについて台北に来た養母を島根に追っ払ったことは、別の機会に
書くことにする。それと、送金させる悪知恵の数々のこともだ。
ワトソン
|