ホームズ殿
大学の同窓会が毎年、各地在住の卒業生持ち回りで開催されていた。
「南冥会」という名称で妻同伴の一泊どまりの親睦会であった。
面白いのは「南十字星」という名称の日本赤十字の看護婦の生き残りの女性たち
も参加することであった。
青春を共にした我々生き残りが、先立った仲間の冥福を祈る会でもあった。
会員亡きあとも、家族も出席したりで和やかな家族の集いのような雰囲気の会
である。
その同窓会が母校の台湾の台北大学医学部訪問という形で開催されたのだ。
広島で生まれて、6歳で宇和島に養子に行き、11歳から18歳までは島根で
暮らした。
きなくさい時代の空気を半失明状態の養母もそれなりに察知していたらしく、
ぼくの学校に出向いて大学進路の相談をしたらしい。
そこで、たまたま友人と腕試しのつもりで福岡の九大医学部会場で受験した、
台湾の台北医学部から合格通知がきてびっくりした。
ちなみに、医者の息子で台北医学部を本命にしていた友人は失敗して怒り狂った。
ぼくは工学関係に進むことを目標に勉強もしていたし、事実、広島大学工学部を
目ざしていた。
電車を作るのが少年からの夢だった。
それに広島には、夢にまでみる実の家族が住んでいる。
校長室に呼ばれて懇々と諭された。
医者になれば、招集されても軍医で絶対戦争で死ぬことはないと。
養母は親父の手の届かない所にぼくを置きたかったのではと、後年には思い至っ
たが、これは意地の悪い憶測かもしれない。
もっとも、ぼくの体力では行軍中に死んでしまうとの親ごころからかも知れない。 実は中学で結核もやって一年の休学を余儀なくされた体だったのだ。
ホームズ、つまらないかい?
前置きがながくなったが次には台北でのこと書くよ。
ワトソン
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