ホームズ殿
過去に住んだ家々めぐりがテーマであるから、歴代の墓場の話だけでは片手
落ちであるから家についても述べよう。
島根県大田市の造り酒屋屋敷は跡形も無く、平ら屋根の集会場になっていた。
ぼくが住んでいた頃は、正月には小作の人々をまねいて、屋敷中の襖、障子を取り
払ってねぎらいの宴を催した。
検事亡きあと年端もいかぬ身ではあっても、緑内障を患って半失明の養母に代わって
羽織袴姿で挨拶の辞を述べた。
口上は未だにすらすら口に上る。ぼくは11歳なんだぜ。
宇和島の小学校では先生に指して貰おうと机に上がって手を上げたことは懐かしい。
養母に「おでしゃ」と呼ばれていた時期である。でしゃばりという意味で元気がいいから
という愛称だったのか、元気にして欲しいという願いだったのか今となっては定かでない。
しかし、幼い当主になった島根では寡黙な少年になって「少年クラブ」と「探海」という
雑誌に耽っていた。模型作りを初めた時期でもある。
ホームズ、ここで告白するが、戦後、養母亡き後は農地解放令もあったが、おびただしい書画骨董から家財一切
を二束三文で売っぱらったのだ。
養子先の財産を無くしたことは先祖様に申し訳ないというよりは、自分の人生を縛ったすべてから解放され
たいという意識で、
快感でさえあった。
終戦後、親父はぼくの母亡き後の後妻と子供も含めて、総勢5人で疎開してきていた。
広島で被災したのだから島根に総領のぼくを送り込んでいたのは、DNA存続としては、最上策だったわけだ。
ぼくは夢にみた本当の家族との生活に有頂天になった。母だけが居なかったが、新しい継母たる女性は若く
美しく、いつもぼくを手厚く親切に遇してくれた。
可愛い妹を三人も生んでくれていたしね。
結局のところ、養子に行って手に入ったものは、戦後の混乱期にぼくの父の家族の命をつないだ。
しかし、それも数年のつなぎであり、気がついた時には、何もなくなっていた。
医師免許で我が身を立てることを余儀なくされた。
おめでたい、青年だったというわけである。
ワトソン
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